白石城築城初期 白石川の清流に沿って南蔵王を仰ぐ町、白石。その中心部の小高い丘の上に白石城があった。寛治2年(1088)後三年の役で戦功を成した刈田左兵衛尉経元が白石の地に賜り、刈田氏と称してここに築城したのが始まりといわれている。 その後、白石氏などの支配後、伊達氏の勢力化に入ったが天正18年(1590)には蒲生氏の所領となり、翌年、城を大改築。本丸に天守閣代わりの三層櫓を、さらに坤櫓・巽櫓を築き曲輪を整えた。その後、会津領主となった上杉景勝の家臣・甘粕備後清長が入城。慶長5年(1600)徳川家康は会津上杉征伐の軍を起こし、伊達政宗は徳川方に呼応して白石城を攻略するため大激論を展開した。関が原の戦いの後、刈田郡は伊達政宗が領有することとなり、青葉城の守りとして伊達家の重臣・片倉小十郎景綱を白石に入城させたのであった。 |
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片倉小十郎景綱公肖像 |
城下町発展期
慶長7年(1602)に片倉小十郎が入城してから約260年、十代にわたり片倉氏が居城し、仙台藩南の要として軍事上の重要な拠点となった。小十郎景綱は仙台藩主伊達政宗の第一の重臣で、政宗を滅私の精神で表裏なく助け絶大な信頼を得ていたという。白石城が仙台藩内で青葉城以外唯一の城であることからも政宗の心が察せられる。その後片倉家代々の領主は様々な改良や改革を行い、白石の産業基盤造りに力を注いだ。農業・養蚕のほか農家の冬の副業として和紙づくりを奨励し、往時には三百余軒が和紙を漉いていたという。
今でも「寒葛」・油を使わない「温麺(うーめん)」とこの「和紙」が「白石三白(さんぱく)」として伝承され、当市の地場産業の基幹的役割を果たしているがその基礎が築かれたといえる。
幕末期
鳥羽・伏見の戦い(1868)に端を発した戊辰戦争は、倒幕による近代国家建設を目指す薩長連合と、徳川から朝廷への平和的な政局転換を唱えた奥羽越列藩同盟との戦いであった。この同盟は奥羽25藩と北越6藩が同盟を結び、藩という封建的単位を超えて「1つの東北」という政治的単位を具体化した点でも画期的な出来事であり、その同盟締結の会議(白石会議)の舞台となったのは他でもないこの「白石城」であり、歴史の焦点となった。
明治期以後
江戸時代の幕藩体制崩壊の後の明治3年、新政府の下でも東北監視のため両羽三陸磐城按察府が置かれるほど白石城はみちのくの重要拠点として位置付けられていた。しかし、明治7年に民間に払い下げられ処分となって城は解体され大手門の土台石や石垣の一部が残るのみとなり、かつての本丸と二の丸跡は桜の名所としても名高い「益岡公園」として市民の憩いの場所となった。
そして、市民の中から復元を望む声が大きくなり、平成5年から白石城の歴史を永代に伝えるため文化財保護の観点から発掘調査を実施。その上で平成7年5月3日に史実に忠実に城郭として機能した文政6年再建後の最晩年の構造による三階櫓(天守閣)、大手門として本丸の一部を再建、取り壊されてから実に120年ぶりに白石市民の願いであった城が復元され、白石に城下町が甦った。
建物は日本古来の建築様式に基づき数百年の歳月に耐えうる全国的にも数少ない木造による復元が採用されて学術的にも高い評価を得ており、今や「白石市のシンボル」的な存在となっている。
片倉家廟所
片倉家3代景長は片倉家代々の城主の墓所を白石城の見える愛宕山山麓に決め、初代景綱と2代重長の墓を景綱の命日にあたる延宝8年(1680)10月14日に傑山寺から改葬し、仙台の石工に阿弥陀如来像を刻ませ墓標とした。
景長の没後も前2代にならって石像を墓標とし、以後9代まで歴代の城主は石像を墓標としたが10代宗景(明治4年)は角状の墓碑である。城主夫人は傑山寺や当信寺などに葬られているが7代村廉夫人のみは仙台藩主吉村公の息女、お郷様(昌子婦人)とあって城主同様石像を墓標としてここに葬られている。
廟所の傍らには初代景綱に殉死した6名の家中武士の墓碑と、維新後、北海道移住の際に建てた片倉家惣家中碑が建てられている。
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